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煩悩退散!

シンプルライフを目指しています。なのに煩悩(物欲・食欲・承認欲 etc.)は尽きません。そんな煩悩をここで吐き出して成仏させようとする試み。

努力が報われない社会について

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最近の日本は努力が報われない社会になったとよく言われます。そもそも努力が報われる社会とはなんでしょうか。少し考えてみました。

努力は報われないことがあるものである

「努力」を、ある人が目標を立て、それに向かって頑張るという意味で捉えた場合、報われない努力というものは確実にあります。

例えば、科学研究を考えてみます。科学者は、自分の目標とする物質を発見したり、理論を打ち立てようと日々努力します。しかし、どんなに努力しても成功しないことがあります。むしろ、そちらの方が多いかもしれません。一生かかっても、自分の目標を達成できないということも多いでしょう。

製品開発を考えてみても、同じです。いつも目標とする製品の開発に成功するわけではありませんし、開発に成功したからといって、目論見通り売れる商品になるとは限りません。万が一欠陥商品を作ってしまったら、会社に多大な損害を与えてしまうかもしれません。

努力が報われるかは目標の立て方にも依存する

一つ注目しなければならないことは、努力が報われる確率は、もちろん、個々人の能力にもよりますが、立てる目標の難易度にもよるということです。

目標が難しすぎれば、一生かかっても努力が報われないということになります。目標がとても簡単ならば、どんな人でも1日で努力が報われるでしょう。

例えば、大きく高価なダイヤモンドを見つけたいという目標を立てたとします。ダイヤモンドがよく出る地層のある地域に行って土を掘り続ければ、見つかる可能性は僅かにあるでしょう。しかし、一生の内に見つけられるかは疑問です。

一方、街で空き缶を拾いたいという目標を立てたなら、それはその日の内にほぼ確実に達成できるでしょう。

つまり、努力が適切な期間の内に報われるためには、適切な目標の設定が必要だということです。

また、自分の能力にあった目標を立てるということも重要です。

先のダイヤモンドの例で言えば、体力があって一日に1トンの土を掘れる人と、体力がなくて100kgの土しか掘れない人では、前者の方が成功確率は高いでしょう。体力がなくても、地質調査などの知識があれば、もっと確率は高くなるかもしれません。

努力が報われない社会とは

こう考えると、「努力が報われない社会」とは、多くの人が、自分の能力に向いていない努力をしているか、高すぎる目標を立てている社会ということができるのではないでしょうか。

科学技術なら、基本的な発見は19世紀、20世紀に行われてしまいました。残っている僅かな新発見をするのはとても大変です。

科学技術が進むことによって研究のしやすさは上がっているわけで、成功の難しさは昔の科学者と同じではないかと考える事も可能です。

しかし、科学技術が進んでも、変わらないものがあります。それは、人間の頭です。科学技術の進歩に脳がついていけず、個々の科学者は、やはり、昔の科学者よりも努力が報われにくいという辛い状況に置かれているのではないでしょうか。

サービス業についても同じです。大体の基本的なサービスの形態は開発しつくされ、新規性を出してお客の目をひくのがどんどん難しくなっているのではないでしょうか。

そう考えると、人間は、もう、努力が報われるということを期待することを諦めるべき時期に来ているのかもしれません。

考えてみれば、科学技術がこれ以上進歩しなくても、(努力が報われるということが幸せだという観念を捨てれば)人々はそこそこ楽しく、しあわせに生きられると思いませんか?

努力が報われなくても生きていける社会

努力をしても報われないということは、良くあることだということを見てきました。しかし、努力が報われなくても生きていける社会というものは必要です。

努力が報われないこともあるからこそ、人々は会社を作ったり、国を作ったりして、個々の人の成功・不成功を混ぜあわせて、再分配して、努力をしたけれども報われなかった人でも生きていけるシステムを作り上げてきました。

会社ならば、何千と行った開発の中で、利益を生み出すことになる商品はごく僅かでしょう。しかし、その商品を開発した人だけに給料を与えるのでしょうか。違いますよね。何千という報われなかった努力をした人にも給料を与えて報います。

国だと、事業が成功して大金持ちになった人や会社から多く税金をとって、成功しなかった人にそれを分配します。

そして、共同体全体としてプラスになっていればいいわけです。

成功・不成功が、その人の能力だけではなく、運・不運にもよっているということが分かっているから、社会はこういう再分配をするシステムになっているわけです。助け合いです。

この再分配が全くなければ、成功確率の小さい新しいことに挑戦しようとする人がいなくなってしまいます。一方で、成功した人はそれなりの能力や努力があったからこそ成功したと考えて、ある程度のプラスアルファは受け取れるようなインセンティブが無いと、人は勢いのある努力ができないようにも思います。

努力が報われる社会とは

つまり、昔の日本は「努力が報われなくても報われていた」のに、今は「努力が報われなければ報われない」社会になったと、多くの人が感じているということなのかもしれません。

自分の目標が、「お金を貰って欲しいものを買い、家族を養う」というものであったならば、そのような社会は「努力が報われる」社会だったのかもしれません。会社の言うとおりに働く「努力」をしていれば、再分配の作用でその努力は報われているように見えたでしょう。

しかし、それは実は「努力が報われなくても報われている」だったことに気づかなくてはなりません。昔から、努力は報われることもあれば、報われないことをあったのです。

では、なぜ「努力が報われなければ報われない」社会になってしまったのでしょうか。

一つには、上で説明したように「目標そのものが人間の能力を超えて難しくなってしまった」ということがあると思います。科学技術が発達しきってしまい、十分再分配できるほどの新たな発見がなくなってしまったのです。枯渇したダイヤモンド鉱山のようなものです。

もう一つには、社会全体として成功者に対するインセンティブが強くなりすぎたということが考えられます。日本でも、ある時期から、企業で成果報酬とかが流行り出しました。でも、それはフリーランスや起業家ならいざしらず、もともと再分配を目的とする会社がやることではありません。企業には、そういう助け合いを好む人が集まってくるのですから、本末転倒です。

そして、企業がそんなことを言うようになってから、日本の力は落ちていったように感じませんか?

私が見るに、科学技術が進歩しきってしまい新しい発見や発明がしにくくなったのに、それを個々の社員の努力が鈍っているのが原因だと勘違いして、成功のインセンティブをより大きくすれば良いという間違った方向に行ってしまったのです。

「今はもう新たな発見・発明は難しくなった。だから、努力が報われなくても報われる制度をしっかり維持します」とか、あるいは、「今のまま進歩しなくても、努力が報われなくても、幸せを感じられるようにします」としなくてはならなかったのでは無いでしょうか。

まとめ

努力が報われる社会ということについていろいろ考えてきましたが、私は、今の状況をそれほど心配していません。努力が報われなくても、今の社会は十分科学技術も進んでいて、快適で楽しい生活ができます。たとえ努力が報われなくても、自分の努力は人類がとても難しい発見をするためのしらみ潰しの一端を担ったのだと考えることもできます。結局のところ、心の持ちようでいくらでも幸せになれるからです。