見ざる・言わざる・聞かざるという言葉があります。この言葉を表現した日光東照宮の猿の彫り物(三猿)が有名ですね。今年は申(猿)年なので、この三猿を年賀状のイラストで使った人も多いのではないでしょうか。今日は、この言葉と健全な批判について考えてみました。
見ざる・言わざる・聞かざるで心を穏やかに
ネガティブなツイートばかりする人や言葉使いの汚い人をフォローから外したらTLが綺麗になり、心も穏やかになった気がするという事を、このまえ記事で書きました。
また、そのようなツイートをRTしたり自らすることもできるだけしないように心がけるようにしています。
ふと、これって冒頭に挙げた見ざる・言わざる・聞かざるの精神だなと思ったのです。
ゲーテの言葉
この前、『ゲーテとの対話』という本を読む中で、ゲーテの言葉から着想して下の記事を書きました。
「悪いものを悪い」と言っても無利益なので、「善いものを善い」と言うことに徹しようというのがこの記事の趣旨でした。
しかし、「悪いものを悪いという」ことは本当に必要ないのでしょうか。ここ数日この疑問は残ったままでした。
『ゲーテとの対話』の中でゲーテ自身は「悪いものは悪い」式の発言を沢山しているのですね。ところが、ゲーテならば批判も建設的に感じたりするわけです。
ゲーテが行う批判に感じるような心地よさと、ネットの炎上で見られる心地悪さの違いは何なのでしょうか?
ゲーテが既に認められた巨匠・偉人だからでしょうか。
見ざる・言わざる・聞かざるの意味
話を戻して、見ざる・言わざる・聞かざるの意味を掘り下げてみたいと思います。いぜん日光東照宮に行った時に、この三猿を含む一連の彫刻は人の一生を表していて、そのうち三猿は子供の時を表している。子供の時には「世の中の悪いことを見たり、聞いたり、話したり」しないで素直に育ちなさいという意味が込められているのだと説明されたように思います。とすると、大人になったら悪いことを見たり聞いたり言ったりしても良いのだという解釈もできますが、そうなのでしょうか。
論語の言葉
また、見ざる・言わざる・聞かざるには論語が由来だという説もあるそうです。
論語に「非礼勿視、非礼勿聴、非礼勿言、 非礼勿動」(礼にあらざれば視るなかれ、礼にあらざれば聴くなかれ、礼にあらざれば言うなかれ、礼にあらざればおこなうなかれ)という言葉があって、この教えが8世紀に留学僧を経由して日本に伝わったというものです。
この論語の言葉、何か気づきませんか?
そうです、「礼にあらざれば」という部分が付いているのです。つまり、礼儀をわきまえていない人のことは見たり聞いたりするな、また礼儀をわきまえない言動は慎めと言っているわけです。全てを禁止しているわけではないんですね。逆に、礼をわきまえているなら「悪いことは悪い」という批判を聞いても良いし、してもよいという事になります。
また、この言葉は、同時に「善いことを善い」と言う場合にも礼は必要であるということも含んでいます。なるほど確かに、単におもねるためだけの無節操な「いいね!」などは逆に害になりそうです。
しかし、「礼」とは何でしょうか。これは難しい問題です。
いちおう儒教では、礼とは「人間関係を円滑にすすめ社会秩序(儒家にとっては身分制階級秩序)を維持するための道徳的な規範」ということらしいです。
私は、もうすこし単純化して「言葉遣いが綺麗か・丁寧か」ということを個人的な判断基準としたいと思っています。そこに健全な批判・議論のコツがあるように感じるからです。
思い返してみると、冒頭で「ネガティブなツイートばかりする人や言葉使いの汚い人をフォローから外したらTLが綺麗になり、心も穏やかになった気がする」と書きました。
ネットでの炎上も、言葉遣いが悪いために建設的な議論になっていないということも多いのではないでしょうか。また、そういう議論を見ていると私は気分が悪くなってきます。
言葉遣いが悪いというのは「人間関係を円滑にすすめ社会秩序を維持する」のに役に立っていない、つまり「非礼」ということになるのではないでしょうか。
しかし、この議論は「言葉遣いが綺麗さ」を定義していないので実は何も定義していないのですけど。
そこを突き詰めても頭が痛くなってしまいそうなので、今日はここらへんで止めたいと思います。
諺や偉人が言っていますよという風に、過去の人を頼りにしてお茶を濁すというのは、案外いい方法なのかもしれません。
まとめ
三猿、ゲーテ、論語と巡って、健全な批判や議論について考えを巡らせてみました。それにしても、古典は長い年月残っているだけあって考えさせられる言葉が多いですね。論語なんて紀元前5世紀からですからね。その頃から人は大して変わっていないということかもしれませんが。