少し前に紹介した『古事記』ですが、思い出した時に少しずつ読み進めています。古事記には、日本中の色々な地名の由来が書かれていて面白いのですが、今日は、崇神天皇の時代の話に出てくるいくつかの地名の由来について書いてみたいと思います。
下の記事で書いたように、入門書を読み終わったので、本格的に全文をよんでみることにしました。
今読んでいるのは、こちらの本です。
この本には、訓読文・現代語訳・原文が収められていますが、まずは現代語訳から読み始めています。ただし、現代語訳の方には注が全く無いので、分からない語句が出てきた時には訓読文の方を参照して調べながら読んでいます。
さて、中つ巻の崇神(すうじん、すじん)天皇の章まで、読み進めました。ここらへんから、古事記は、神々の物語から実在の天皇の物語に移ってきます。
三輪(奈良県)の地名の由来
三輪は、奈良県桜井市にある地名で、三輪山をご神体とする大神神社(おおみわじんじゃ)があることでも有名な場所です。また、三輪素麺は、奈良県の名産品として有名ですね。
崇神天皇の章には、この三輪の地名の由来が以下のような感じで書かれています。
崇神天皇の時代、疫病が流行って国が滅びそうになった。
その時、天皇の枕元に、大物主大神(おおものぬしのおおかみ)が現れて、「この疫病は私が起こしているものだ。意冨多々泥古(おおたたねこ)を呼んできて祭りをしたら疫病は治まるであろう」と言われました。
考えようによっては、ひどい神様です。
天皇は、使いを派遣し、現在の大阪府八尾市付近で、意冨多々泥古を発見します。意冨多々泥古が言うには、自分は大物主の子孫だとのこと。
天皇は喜び、意冨多々泥古を神主として大物主神を大三輪大神(おおみわのおおかみ)として三諸山に祭ったところ、疫病は収まり、太平の世が訪れた。
意冨多々泥古がなぜ自分が大物主の子孫だと知っていたかという逸話が、その後語られます。
意冨多々泥古の曾曾祖母である活玉依毘売(いくたまよりびめ)はとても美人であった。そこにまた、かっこ良い若い男がいて、夜とつぜん活玉依毘売のもとに現れた。
二人が夜ごと一緒にいるとしばらくして、活玉依毘売は妊娠していた。
(そんなことはしらない)活玉依毘売の両親は不思議がって、次の夜その男が来た時に、糸巻きの麻糸の端をその男の裾に針で刺して見なさいと言う。活玉依毘売がその通りにしてみた次の朝、糸は戸から出ていって、三輪山の神の社のところまで伸びていた。これによって、腹の中の子の父は大物主神であること分かった。
さて、その糸巻きには、三巻(まき)分しか糸が残っていなかった。そのため、その土地を三輪(みわ)と書くようになったのである。
ということで、三輪の地名の由来が明らかになりました。
重要な事は、この話が実話であってもなくても(実話ではないでしょう)、古事記にこのように記載されることで、その後の人々はこの物語を参照して生きてきたということです。
また、古事記には、このような地名の由来や、氏族の祖がどの神であるかという事がとても沢山出てきます。古事記が成立した時代の人々の関心事を反映していると思って読んでみると楽しいですね。
地名の由来って、現代でも人気の雑学ですし、人間って変わっていないのでしょうね。
戦いで生まれた恐ろしい地名
崇神天皇の章には、天皇の伯父である建波迩安王(たけはにやすのみこ)が反乱を企てたため、大毘古命(おおびこのみこと)が討伐を行なったという記述もあります。この戦は、今の京都府南部から大阪府東部にかけての地域で行なわれました。
この戦いは、とても激しく徹底的なものだったようです。古事記には、この戦いにちなんだ恐ろしい地名の由来が物語られています(恐ろしいのであえてここでは書きません。興味のある方は古事記の本文を読んでみてください)。
なお、なぜ建波迩安王の反乱が分かったかというと、大毘古命が北陸の高志(こし)に向かう途中、弊羅坂(へらさか)という所で少女が天皇の死を暗示するような歌を歌うのを聞いたからと古事記には書かれています。
建波迩安王に初めから反乱の意志があったのかどうかは古事記には書かれていません。無実だったとしたら、少女の歌一つで反乱の疑いをかけられた建波迩安王もたまったものではないですね。
下の地図に、この戦いに出てくる場所を示してみました。ピンをクリックすると説明を読むことができます。
大毘古命は、もともと、北陸を平定するため、高志に向かうはずでした。
建波迩安王の討伐が終わると、大毘古命は、北陸平定の戦に向かいます。一方、息子の建沼河別命(たけぬなかわわけのみこと)は、東国平定の戦を行います。
両者が平定を終わって落ち「合った」場所が、現在の福島県の会津(あいず)です。
この時代に、既にここまで行ってたんだということを想像すると、なんだか楽しくなります。
初国知らしし天皇
建波迩安王を討伐し、北陸・東国を平定した崇神天皇の世は、天下泰平となり人々も豊かになったことから、初めて税の徴収が行なわれました。これによって初めて国家らしくなったということから、崇神天皇は「初国知らしし天皇」と呼ばれています。
崇神天皇は、戊寅の年の12月に168歳!で崩御します。このように、年に干支で注を付けるのは、ここが初出になります。
干支が分かると年号が推定できるのですが、それによると318年あるいは258年没ということになるそうです。
仮に、258年没ということになると、邪馬台国の卑弥呼の時代の後半と重なります。ということから、「崇神天皇は卑弥呼の後継の女王であった台与の摂政だった」「崇神天皇は卑弥呼の男弟だった」という説なども提唱されているのだそうです。
いずれにしても、崇神天皇は実在した人物であろうという説が有力なのだそうです。
まとめ
古事記の崇神天皇の章の色々な地名の由来の話について書いてみました。続きも、ちまちまと読んでいきたいと思います。