村上春樹の『職業としての小説家』の前半部分を読み終わりました。最近、なんとなく小説というものに興味がわいてきているので、タイトルに惹かれて購入してみました。あまり一気には読まないで、ちびちび読み進めています。
村上春樹は、知り合いに薦められて読んだことをきっかけに、自分でも何冊か買って読むくらいには好きな作家です。そんな村上春樹が、小説について何を語っているのか、興味を持って読み始めました。
小説の参入障壁は低いが、生き残る人は少ない
まず目を引いたのは、小説は文章さえ書ければ誰でも参入できる産業である、と著者が言っている部分です。これ、確かにそうだなと思いました。
特に今の時代は、小説を発表するのに出版社を通す必要さえありません。Kindleの本を自分で出してもいいですし、ネット上の「カクヨム」の様な場所で発表するのでも良いのです。
そもそも、小説を書くという行為は、言論の自由で保証された行為であり、本来、参入障壁はないはずです。
同じように、今私がやっているような、ブログを書く行為というのも、言論の自由で保証された行為であり、参入障壁もほとんどゼロです。
つまり、ブログを書く人は言論の自由の権利をちゃんと利用しているということなんです。せっかく言論の自由のある国に生まれたのですから、使わないのは損ですよね。
しかし、小説の参入障壁が低くいといっても、そこでプロとして生き残る人はほんの僅かです。芥川賞などの賞をとって一時は騒がれた作家で、一体何人が作家として売れる小説を書き続けているでしょうか。
小説は頭の回転の遅い人の表現方法である
多少は謙遜があるのかもしれませんが、著者はこのように言ってます。もちろん、頭の回転か遅いということは必ずしも知性が低いということではないと著者も思っているような節がありますし、私もそう思います。
確かに、頭の良い人であれば、伝えたいことを論理的な文章で手短に表現することができます。それができないから小説を書くのだということなのですが、これは、もう一方で、頭の回転の遅い人に思いを伝えるためには、小説は適したフォーマットであるということも意味しているのではないかと私は思います。
この部分は、私が以前下の記事で書いたことと、期せずして共通する感じがあったので、少し嬉しくなりました。
この記事で私は、論理的に説明しても分からない人に対しては、小説という形で思いを伝えるのが有効なのではないかと書いたのですが、小説を書く人自体が頭の回転が遅いということは考えていませんでした。頭の回転の早い人が、遅い人に伝えるために、敢えて小説を書いているのではないかと想像していたのです。
しかし、村上春樹によると、小説を書く人も頭の回転が遅いということらしいのです。これだけ多くの小説を書いている人が言うのだから、それはそれなりに確かな実感なのではないでしょうか。
世の中には頭の回転の早い、物分りの良い人はあまり多くないですので、小説が果たす役割はかなり大きいのではないかと私は思っています。また、論理では表現できない感情などは、小説のような形でしかそもそも伝えられないのではないでしょうか。
村上春樹の小説のネタを収集する方法が悟りの境地だと思った
また、「さて、何を書けばいいのか?」という章で、興味深い記述がありました(111ページ)。
ここで村上春樹は、物事を詳細に観察し、良いとか悪いとかの判断や結論はできるだけ先延ばしにして、そのままの形で引き出しに記憶しておけば、後から小説のネタとしていかようにでも使えるという趣旨のことを言っています。
これって、驚くべきことに、私が最近読んでいる瞑想や仏教の本に書いてある悟りの境地とかなり似ています。
偏見や執着をできるだけ排除してありのままを観察するというのは、小説家に限らず、良い仕事をするための必須条件でもあるのかもしれませんね。
いつの時代も題材の不足に悩む
また、少し面白かったのは、村上春樹が『風の歌を聴け』を書いた時に「これはもう、何も書くことがないということを書くしかない」という心境で臨んだというところです。
そう言えば、ドイツの詩人ゲーテも、『ゲーテとの対話』で「今の若い人は自分が若い頃に比べて題材が少なくて可哀想だなあ」と言っていました。
クリエーターは、何時の時代も前の時代の人に比べて題材が少ないという悩みにぶつかるようです。
まとめ
村上春樹の『職業としての小説家』の前半部分の感想を書いてみました。本は、興味を持って読むと、面白い部分が浮き上がってきます。この本も読んでいて興味深いところがいくつも見つかりました。後半部分も、少しずつゆっくりと読んでいきたいと思います。
追記:後半の感想を書きました。