倭建命(ヤマトタケルノミコト 日本武尊)という人をご存知でしょうか? 日本の伝説上の英雄だということくらいはなんとなく聞いたことがあるかもしれません。
引き続き『古事記』を読んでるのですが、面白エピソード満載なので、なかなか先に進みません(面白いところはいちいち記事にして紹介したくなるので)。今日は、古事記の倭建(ヤマトタケル)の章に出てきた面白い話を紹介してみます。
倭建命(ヤマトタケルノミコト)はどんな人?

- 作者: 中村啓信
- 出版社/メーカー: 角川学芸出版
- 発売日: 2009/09/25
- メディア: 文庫
- 購入: 1人 クリック: 10回
- この商品を含むブログ (14件) を見る
倭建命(ヤマトタケルノミコト)は、景行天皇(オオタラシヒコオシロワケノスメラミコト)が針間(=播磨、現在の兵庫県南部)の伊那毘大郎女(イナビノオオイラツメ)と結婚して生まれた御子の1人です(大郎女は長女の事)。生まれた時の名前は、小碓命(オウスノミコト)です。日本書紀では日本武尊と書いてヤマトタケルノミコトと読ませます。
倭建命は、熊襲征討、出雲征討、東国征討をした英雄としてよく知られた伝説上の人物です。
ちなみに、私が読んでいる上の本だと、倭建はヤマト「タケ」と読むべきだそうです。というのも、「タケル」だと”吠える”とかいう意味になってしまい、それは不服従者に対する卑称だからです。
荒々しい性格ゆえ遠征を命じられる
小碓命(倭建命)には、大碓命(オオウスノミコト)という兄がいました。あるとき天皇は、美濃の国に美人の姉妹がいると聞き、この大碓を使者として遣わします。しかし、大碓は自分でその二人と結婚してしまい、天皇には偽の二人を送ります。天皇はそのことに気づきますが、事を荒立てることを避け、悩んでいました。
そこで、弟の小碓に「兄の大碓のことをねぎ(ていねいに)教え諭してやりなさい」と言います。しかし、小碓は、「ねぎ」の意味を取り違えて、兄の手足をもぎ取って(ねぎ)こもにくるんで捨ててしまったのです。
(いや、天皇の結婚しようとしている姉妹を横取りしたのですから、殺された大碓も相当ダメな人なんですが、小碓もあぶない性格をしていそうなことが伺えます)
それを聞いた天皇は、小碓の性格が荒々しいのを恐れて、西(九州南部)の熊曽建(クマソタケル)兄弟の討伐を命じたのでした。
意外な特技で熊曽建を討つ
さて、小碓は熊曽建の屋敷まで辿り着きます。熊曽建は、屋敷を三重の軍で囲み、屋敷の新築祝いの宴をする準備をしています。
とても正面突破は無理だと思った小碓は、なんと
女装して宴会に潜入する
ことを計画します。この時代に既に女装という概念があったということに驚きました。人ってあんまり変わってないんですね。
計画は上手くいきます。熊曽建たちは、小碓を可愛い乙女と思い込み、自分たちの間に置いて宴会を楽しんでいました。女装して可愛いということは、小碓は相当な美少年だったことが想像されます。
宴もたけなわという時、小碓は懐の剣を取り出してまず兄の熊曽建を殺します。
倭建という名前の由来
逃げる弟の熊曽建の方には、尻から剣を差し込みます(ひどい。ここにも小碓の異常性が表現されている気がします)。
尻から剣を刺された状態の弟の熊曽建は、小碓に向かって言います。
「どうか剣を動かさないでください。申し上げたいことがあります。」
小碓がそれを許すと
「西の国には我々以外に勇ましく強い者はいません。ところが大和の国にこんな勇ましい方がいたとは。そこで私は、あなたに倭建御子(ヤマトタケノミコ)という名前を献上いたします。」
と言ったのです。それを聞き終えると、倭建は剣を動かして熊曽建を「熟してへたの落ちた瓜を切るように」斬り殺してしまったのです(こういう表現は生々しいですね)。
私は思いました。いやいや、尻から剣を刺された状態で自分を殺そうとする相手に名前をプレゼントするでしょうか(命乞いのつもりだった可能性はありますが)。『古事記』には、現代の常識が通じないこんな突飛な話しが多くて、興味深いです。
休むまもなく東征を命じられる
熊曽建を討った倭建命は、帰る途中で軽く出雲の出雲建を征討しながら、京に帰ってきます。しかし、息をつくまもなく、今度は東国12カ国の征討を命じられます。
この東征で有名なのが、草薙の剣と焼津という地名の由来にまつわる話です。興味のあるかたは、是非『古事記』を手にとって読んでみてください。
伊吹山の神を殺そうとして返り討ちに遭う
倭建は、東征の締めくくりとして、伊吹山の神を殺そうと伊吹山に向かいます。しかし、油断があったのでしょうか、山の神が降らせた大粒の雹によって惑わされ気を失ってしまいます。そして、それが原因で体調を崩してしまいます。
結局、三重の能煩野というところに着いたところで病状が急変し、小碓は死んでしまいます(ここには、三重の地名の由来も書かれています)。
あれほど強かった倭建にしては、意外な最後です。それまでの征討の旅の疲れもあったのでしょう。
でも、私には少し分かります。以前、伊吹山に登ったことがあるのですが、あの山には何かあります。登山道のいたるところに異様に大きなアブとかブユが飛んでいたりして、他の山にはない雰囲気を感じました。
夏登ったのですが、暑さでかなりバテていたのと同行者の靴が壊れたこともあって、途中で登頂を断念して戻ったという苦い記憶があります。ですので、伊吹山頂にある日本武尊の像を見ることはできませんでした。
ちなみに、伊吹山は世界最深積雪記録11m82cmという記録も持っていて、標高は1337mですが決して侮れない山です。
倭建の魂は、大きな白い千鳥になって飛んでいったということです。そのため、倭建の陵は、白鳥御陵(しらとりのみささぎ)と言います。現在、白鳥陵と呼ばれる場所は、奈良県御所市と大阪府羽曳野市にあるそうです。
まとめ
『古事記』で語られる、倭建(ヤマトタケル)のエピソードを紹介しました。単なる「英雄」という語からは想像できない話がそこにはありました。この古事記の記述をそのまま受け取ると倭建の性格には異常性・残虐性が見て取れます。まあ、そうだからこそ熊襲征伐などを成し遂げられたのかもしれませんが。
なかなか読み応えのある『古事記』、これからもじっくり味わいながら読んでいきたいと思います。この調子だと読み終わるのがいつになるのか分かりませんが…
古事記に関して書いた他の記事はこちら