少し前から、原始仏教の経典である『スッタニパータ』の日本語訳『ブッダのことば』を読んでいます。今日は、原始仏教における学問・科学・技術に対する考え方について、『スッタニパータ』の中の詩句をいくつか紹介したいと思います。
皆さんの中には、宗教と科学は対立するというイメージを持たれている方もいらっしゃるかもしれません。私も少し前までは、そうでした。ガリレオの宗教裁判などのイメージからだと思います。
宗教と科学の関係はそんなに簡単に語れるものではないと思います(宗教が科学を推進した時もあれば、科学と対立した時もある)が、私は理系で勉強した人間なので、本を読むときにもそういった観点に目が行きがちです。
例えば、これまでに読んできた原始仏教系の本では、仏教は宗教というよりもむしろ(心の)科学であるという主張がなされているのをみました。
科学とあまり対立しないそのような仏教の性質が、最近アメリカのIT系の企業などで瞑想(マインドフルネス)が流行っている背景にあるような気もします。
原始仏教が成立した頃の、科学や技術に対する考え方を示しているものとして、『スッタニパータ』に以下のような詩があります。
学識ゆたかで真理をわきまえ、高邁・明敏な友と交われ。いろいろと為になることがらを知り、疑惑を除き去って、犀の角のようにただ一人歩め。(ブッダのことば 蛇の章 三 犀の角)
深い学識あり、技術を身につけ、身をつつしむことを良く学び、ことばがみごとであること ― これがこよなき幸せである。(ブッダのことば 小なる章 四 こよなき幸せ)
このように、学問や技術を学ぶことは基本的には良いことであると考えられていたことが分かります。
仏教の修行では、全ての偏見を取り去って正しく観ることを目指します。その中には、宇宙の法則を理解しようとする科学や、それを応用した技術というものも含まれるのは当然でしょう。
しかし、正しく観るためには、科学の知識だけではダメであるとういことにも注意をする必要があります。科学技術には限界があることもしっかりと理解し、人の心の働きについてもよく知り、身をつつしんで生きるということが重要なのだと思います。
ブッダは言います。
ひとが何かあるものに依拠して「その他のものはつまらぬものである」とみなすならば、それは実にこだわりである、と〈真理に達した人々〉は語る。これ故に修行者は、見たこと・学んだこと・思索したこと、または戒律や道徳にこだわってはいけない。(ブッダのことば 八つの詩句の章 最上についての八つの詩句)
『ブッダのことば』のこの章には、他に、争闘・論争に関する今のネット社会にも通用しそうな教えも満載です。興味のある方は、是非読んでみてください。
この『スッタニパータ』は、古代の、そして、現代でも十分通用する第一級の自己啓発本だと思います。