このブログを読んでくださっている方はご存知と思いますが、私は最近漢文の再勉強をし始めています。最近、『老子』などの中国の古典に興味を持ち始めていて、出来るならば原文でも読みたいなあという思いがあるからです。また、最近読んでいる『古事記』も原文は漢文(変体漢文というらしい)です。ということで、漢文というものに興味が出てきて、高校生まではどちらかと言うと嫌いだった漢文を再勉強しようとしています。
andでもbutでもどちらでも良いじゃない

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『漢文法基礎』を読んでいて、気になったのが、「而(しこうして)」という助字の意味です。これは、接続詞として使われる助字ですが、意味に順接・逆説両方あるというのです。そして、順接で訳すか、逆接で訳すかは文脈で考えるしかないというのです。漢文は何と曖昧で不備のある言語だろうと思いました。
一方、現代の日本語や英語では、順接と逆説の接続詞は明確に分けます。「〜て・〜が」「~ and・~ but」なんと明確でしょうか。
しかし、『漢文法基礎』にも書いていますが、順接だろうが逆説だろうが、ある二つの事実があるということには違いがないわけですね。
「太郎は男の子であるが、お人形が好きである」
は逆接であっても「太郎は男の子である」「太郎はお人形が好きである」という二つの事実を言っています。
そう考えると、漢文の「而」は論理におけるアンド記号「∧」と同じと考えれば良いのですね。
では、順接も逆接の同じ事実を表しているとすれば、逆接「が」が何を表しているかというと、作者や世間の「男の子ならば普通はお人形は好きではないけど」という常識を示しているわけです。
でも、よく考えてみると、そんな常識というのは文化や地域や時代によって変わります。漢文は、中国を中心とする古代のアジア地域の様々な文化間の共通語としての役割を果たしていたといいます。そのような環境では、簡潔明瞭が尊ばれ、常識などといったあやふやなものは記す必要が無かったため、順接も逆接もない論理記号としての「而」という接続詞が使われることになったのでしょうか。
買いかぶりすぎかもしれませんが。
まとめ
漢文の勉強ででてきた「而」という接続詞について考えてみました。
いずれにしても、順接なのか逆接なのかは、いろいろ考えると面白いですね。
「国破山河在」(国破れて山河在り)を「国が破れたのに山河は昔のままで残っている」と考えるか「国が破れたからこそ山河が昔のまま残っている」と考えるか。どちらでしょう。