少し前から、私はネット上の論争というものをあまりフォローしないように、気にしないようにしています。自らも、ネガティブな内容のツイートを発言したり、リツイートすることも控えるようになりました。
心の平静を
というのも、ネット上の論争をフォローしても、議論がいつしか、誹謗、レッテル貼り、茶化し、ほのめかしなどに発展してしまうことが多く、読んでいてあまり気持ちがよくないですし、益も少ないなと思うようになったからです。
そのように行動を変えるようになってから、心が平静になり、乱されることが少なくなったような気がします。これは個人的にオススメの生き方なのではないかと思い始めています(気づくのが遅い?)。
そこらへんの事は、下の記事などでも書いてきました。
もちろん、自分の意見を表明し、間違っていると思うことを批判する自由が日本ではあります。しかし、だいたいの場合、やり方が悪いために、とても苦しいものになってしまいがちなのだと思います。
特に、かげぐち・誹謗や、茶化し・ほのめかし等は、はたから見ていても気分が悪くなるものです。
そういう方法を使い出すと、元々の議論の内容からどんどん離れていって、「あいつはきにくわない」とか「あの人は〇〇だから」とか、人格的な批判の応酬に発展しがちなように思います。
昔、「悪口を言うのは弱い証拠だ」という言葉を学校の先生に教えられたことがあります。
なるほどと思って、自分でも、極力悪口を言わないように心がけてきました。また、悪口を言っている人をみると、いくら偉そうにしていても、この人は実は弱いのだな、あるいは、今精神的に辛いのかなと思うようにしてきました(そういう人を内心馬鹿にする心があったことも事実です。それはまた別の弱さなのでしょう)。
思い返すと、この先生の言葉が、私のこれまでの人生の行動原理の核になっていたように感じます。この考え方も、心を平静にするにはなかなか効果的だと思いますので、ぜひ試してみてください。
批判をしないで社会を発展させられるか
しかし、批判をやめて社会に対して無責任になれというわけではありません。
批判の代わりに、自分が良いと思うアイデア、良いと思う行動、良いと思うニュースをどんどん広めていけば良いのです。間違っていることに批判というマイナスで対抗するのではなく、プラスだけで対抗するのです。
今は人々がプラスもマイナスも使いながら、多くの不毛な議論を生み出している社会です。それはそれなりにうまくいっているとは思いますが、人々がプラスだけを使って社会を形作っていったらどんな社会ができるのでしょうか。なかなか興味深い実験になりそうです。
原始仏教の経典『スッタ・ニパータ』の中の教え

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最近読んでいる原始仏教の経典『スッタ・ニパータ』に、下のような一節がありました。
389 もしもかれ【=修行僧】が、教えを聞く人、或いは他の修行者とともに語る場合があるならば、その人にすぐれた真理を示してやれ。かげぐちや他人を誹謗することばを発してはならぬ。
ここは、まあ分かります。ここまで私が言ってきたように、かげぐち・誹謗はろくな結果をもたらしません。しかし、釈迦は次にこのように言います。
390 実に或る人々は(誹謗の)ことばに反撥する。彼ら浅はかな小賢しい人々をわれらは称賛しない。(論争の)執着があちこちから生じて、彼らを束縛し、かれらはそこでおのが心を遠くへ放ってしまう。
つまり、こういう人がいるので、誹謗はよくないということなのですが、逆に、自分が誹謗された時に、反発することも良くないということなのですね。する方にも、される方にも、自制を求めているのです。
「(論争の)執着があちこちから生じて、彼らを束縛し、かれらはそこでおのが心を遠くへ放ってしまう」という言葉は、なかなか含蓄があるとは思いませんか?
まとめ
論争について、感じていることを書いてみました。ネット上の不毛な議論から一歩引いて、心の平静を保つという行き方も良いと思います。最初から「SNSなんか見ないよ。それで十分ハッピーだよ」という「苦もなく悟っている」人も周りには結構いますが。