煩悩退散!

シンプルライフを目指しています。なのに煩悩(物欲・食欲・承認欲 etc.)は尽きません。そんな煩悩をここで吐き出して成仏させようとする試み。

【読書】『古事記』:お腹に子を宿しながら新羅に攻め入った神功皇后の物語


古事記も少しずつですが読み進めています。今回は、前回紹介した倭建命(ヤマトタケル)の物語の後に続く仲哀天皇から神功皇后までの物語を読みました。ここにも興味深い話がありましたので紹介してみたいと思います。

新版 古事記 現代語訳付き (角川ソフィア文庫)

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仲哀天皇はヤマトタケルの息子

倭建命(ヤマトタケル)が第11代垂仁天皇の娘の布多遅能伊理毘売命(ふたじのいりびめのみこと)と結婚して生まれた御子、帯中津日子命(たらしなかつひこのみこと)は、成務天皇の後を継いで第14代仲哀天皇となります。

一時的に九州を本拠としていた時代

仲哀天皇は、穴門の豊浦宮と筑紫の訶志比宮(かしひのみや。香椎宮)から天下を統治したとあります。

穴門の豊浦宮は、現在の山口県下関市長府豊浦あたりにあったと考えられています。現在の忌宮神社がその跡であるとされています。

また、筑紫の香椎宮は、現在の福岡県福岡市東区香椎あたりにありました。現在も香椎宮と呼ばれる神社があります(ここは仲哀天皇廟として建てられたとの記録があります)。

香椎という地名で私が思い出すのは、松本清張の『点と線』です。この小説は香椎は犯行現場として登場します。昔、九州旅行をした際に、この小説の刑事の真似をしてJRの香椎駅と西鉄の香椎駅の間を歩いてみたのはいい思い出です。

点と線 (新潮文庫)

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このように大和ではなく北九州に本拠を置いて政治をしていたのは、熊襲征伐のためです。ヤマトタケルの熊曽建討伐の後も九州地方の抵抗は続いていたようです。

このころは天皇が変わる度に本拠地が変わるのは普通ですが、その時々の政治課題にあわせて機動的に九州にまで本拠地を移動していたということは興味深いですね。ヤマトタケルの血を引いた仲哀天皇は、自分で陣頭指揮を取りたがる性格だったのかもしれません。

神のお告げを信じなかった仲哀天皇の身に異変が…

さて、仲哀天皇の皇后は、息長帯比売命(おきながたらしひめのみこと)、後の神功皇后です。

ある時、皇后は香椎宮にて神がかりの行事をしました。皇后に乗り移った神は、琴を弾く天皇に向かって「西の彼方に金・銀や宝物がたくさんある国がある。その国を天皇に授けよう」と話します。

天皇は、「高い場所に登ってみても西に国など見えない。偽りの神だろう」と言って琴を弾くのをやめてしまいます。

すると神は怒り、「もはやこの国はあなたの統治すべき国ではない。あなたは一筋の道にお行きなさい」と言いました。一筋の道とは黄泉の国へ至る道のことで、つまり、神は天皇の崩御の予言をしたのです。

それを聞いた大臣の建内宿祢が「そのまま琴をお弾き下さい」と言っても、天皇は琴を引き寄せて適当に弾くだけです。

それから間もなく、琴の音が聞こえなくなったので、火をかかげて見てみると、天皇は既に崩御されていました

皇后たちは、このありさまに驚き、天皇を安置し、神に捧げ物を捧げて、さらに国中の罪の穢を払った上で更に神託を求めます。

神は、「この国は皇后の腹の中にいる御子が統治する国である」と言います。

建内宿祢が「あなたはどのような神ですか」と問うと、神は「このお告げは天照大御神の御心意である。また我は住吉の神 底筒男・中筒男・上筒男である」と答えます。これらの神と神功皇后が現在の大阪住吉大社の御祭神です。

神はさらに「西の国を求めようと思うなら、諸々の神に供え物をして祭りをし、我が住吉の神の御霊を船に乗せ、木の灰を瓢箪に入れて、箸と木の葉の皿をたくさん作り海に浮かべて、(西の国に)渡りなさい」とのお告げを与えます。なかなか奇抜なおまじないですね。

それにしても、父親のヤマトタケルは伊吹山の神を殺そうとしたために死に、子の仲哀天皇は住吉の神をないがしろにしたために死にました。ここには、何かの暗示があるような気がしないでもありません。

神功皇后の新羅親征

神功皇后は、神のお告げ通りに軍を率いて海を渡り、新羅に攻め入ります。なお、「親征」とは、天皇などが自ら軍を率いて戦いを行うことです。

途中、大小の魚が船を背負い、強い追い風が起こって、船は波に乗って進みました。その大波は、新羅国に寄せ上がり、それだけで国土の半ばまでついてしまいます。

これに恐れをなした新羅の国王は降伏し、皇后は新羅国を御馬飼(みまかい=馬の飼育係)と定め、また、百済国を屯倉(みやけ=直轄地)に定めて、帰還します。

この物語は、神のお告げの通りにしたおかげで、あまり戦らしい戦をせずに新羅・百済を征服することが出来たことを伝えています。

ちなみに、神功皇后が実在の人物なのか架空の人物であるのかについては諸説あるそうです。

神功皇后 - Wikipedia

しかしながら、倭の軍勢が新羅に攻め込んだことは朝鮮や中国の歴史書にもあるらしいので、おそらく、この古事記の物語に類したことは実際に起こったのではないかと感じます。

三韓征伐 - Wikipedia

応神天皇の誕生

お腹に子を宿した状態で海を渡った神功皇后は、日本に帰る前に臨月を迎えてしまいます。

そこで、石を腰につけて出産を引き伸ばして(そんなことできるのかな)、筑紫の国の帰った時に御子をお産みになります。後の応神天皇です。御子を産んだ場所には宇美(うみ)という地名が付けられました。

宇美という地名は現在も残っていて、福岡空港の南東あたりです。

なお、出産を引き伸ばした石は、筑紫の国の伊斗村(いとのむら)にあると古事記は伝えています。現在の福岡県糸島市にある鎮懐石八幡宮はこの石を祀った神社です。

この章の最後には、神功皇后が筑紫の松浦県の「小河」という川で、服から抜き取った糸に米粒を餌として付けて鮎を釣ったという故事が紹介されています。これにちなんで、4月の上旬に女達が衣から抜き取った糸に米粒を付けて鮎を釣る行事が今でもあるのだと古事記は伝えています。

まとめ

『古事記』から、仲哀天皇から神功皇后の新羅親征、応神天皇の誕生までの物語を紹介してみました。新羅という実在の国が出てきたりと、物語はだいぶ歴史の雰囲気を持ち始めました。これからも、ちびちび読み進めていきたいと思います。

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